大学が学術出版をする意義と方向性(2)(+研究会趣旨説明・質疑応答・コメント)

オンライン研究会「大学が学術出版をする意義と方向性(2)」2023/04/20
研究・イノベーション学会 大学経営研究懇談会
https://kiyo.cseas.kyoto-u.ac.jp/2023/05/seminar2023-04-20/

〈研究会趣旨説明〉
原田隆(東京工業大学 主任リサーチ・アドミニストレーター)
本オンライン研究会は、研究イノベーション学会大学経営研究懇談会が主催しております。また、共催として紀要編集者ネットワークに協力いただいています。

今回の講演は、機関リポジトリを利用した電子ジャーナル『地域生活学研究』の発刊に取り組んでいらっしゃる富山大学の鈴木先生に講師をお願いしました。大学経営研究懇談会では、大学が行う出版の意義と可能性、また課題について定期的に研究し、話題提供しています。その意味で鈴木先生が取り組まれている機関リポジトリを活用した電子ジャーナルは、コスト面だけでなく、大学が行う出版の魅力を再確認する、もしくは一つの方向を示すものと期待しています。それでは鈴木先生よろしくお願いします。

〈講演〉
鈴木晃志郎(富山大学 学術研究部 人文科学系)

富山大学の鈴木と申します。今日はどうぞよろしくお願いいたします。

「大学が学術出版をする意義と方向性」の第2回ということで報告させていただきます。私が運営している雑誌をみなさまに知っていただきたいというのもありますが、それよりもこの雑誌の運用を通じて得た問題意識をみなさまと共有したいと思っております。冒頭で「転覆提案」を紹介しますが、それからちょうど30年経とうとしています。この発表の最後に、もう一つの転覆提案というのをお示しして、みなさまと理解を共有したいなと思っています。この場をお借りして話をさせていただくことになり、この講演をきっかけにそういう動きが創出できれば素晴らしいなと思っております。

今日の話題
今日の話題は大きく分けて3点あります。まず最初に、転覆提案からちょうど来年で30年経ちますが、オープンアクセス(以下、OA)思潮がもたらした問題を私のフィルターを通して概観します。

第二に、『地域生活学研究』についてです。『地域生活学研究』は、私個人が手弁当でやっているのに近い小さい試みです。ですから、この雑誌をアピールするよりは、その背景にある私なりの問題意識ですとか、リポジトリあるいはJ-STAGEのような共有財(コモンズ)を活用して我々——お聞きいただいている方全てという意味での我々——に今何ができるのかということを議論する際の素材を提供することに重きを置いてスライドを説明したいと思っています。

最後に、『地域生活学研究』の問題点を示しつつ、新しい転覆提案というのをお示しします。みなさまと問題意識を共有して、新しい転覆提案を揉んでいただく機会にしたいと思っています。

OA(オープンアクセス)思潮の背景——転覆提案——
初めに、転覆提案の話をさせていただきます。これはStevan Harnadが1994年に提唱した概念ないしは運動です。Harnadが言ったのはこういうことです。それまで学術出版は紙媒体を前提にして動いてきた。この運用形態では、査読の後に編集をして印刷・製本し、それを会員に配る工程が必要になる。これに時間がかかってしまって、速報性を損ねてしまう。紙に印刷しなければいけないので、採算性も問題になる。これが学術的な成果をみんなで共有する際の壁になっているのだと。Harnadが想定していたのは、今でいうGreen OA、必要最小限のインフラだけを整備して、あとは無償でスピーディーに情報交換できるプラットフォームを作ることでした。

Harnadの提案がどれだけ斬新だったか若手の方にはわかりにくいかもしれませんが、転覆提案をした1994年は、Windows 95が出る前の年です。Windows 95の前はWindows 3.1ですから、今のようなWindowsのフォーマットがやっと市場に登場した頃ということになります。この時期に、これからは電子出版の時代だ、ウェブ経由で情報をやり取りできるんだから出版コストが要らなくなるぞという予言をしたということですね。

急伸するOAジャーナル
それから来年でちょうど30年、今OAをめぐる状況がどうなっているのかです。インパクトファクターとは別の指標をつくろうとしているいくつかの会社の集まり、Altmetricという会社がありますけれども、昨年、同社に所属しているアナリストElizabeth Smeeが、Harnadの提案からOAをめぐる状況がどう変化したのかを可視化してグラフで示しています。

先ほど、伝統的な雑誌は査読をした後に紙媒体で出版をする、それにコストがかかっているというお話をしました。学会誌もコストをかけて出版をしています。学会誌は、関心を同じくする人が会員になり、お互いに出版コストを負担するモデルで動いています。会員が出版コストを負担した結果として生まれた論文をみんなに読まれてしまったら、会員には何も得がない。だから一定期間、非会員の人には読ませない。これが、クローズドと呼ばれるタイプの雑誌です。それに対してOAの雑誌は、誰かが出版コストを負担して、その代わりにみんなに読んでもらえる形にするタイプの雑誌です。

Smeeの図に戻りましょう。OAの論文全体の伸びが青の折れ線で表わされています。学会誌のようなクローズドの雑誌の論文が赤の折れ線です。クローズドとOAの論文数が逆転するかしないかというところまできています。Harnadが予言した通りだし、彼の後にもいくつかの国際誌で2020年代に入ったら過半数の雑誌がOAになると予言した人がいたんですが、その通りになってきていることが読み取れます。

ただ、ここで注目したいのはその内訳です。OA論文全体の伸びに一番貢献しているのは、Gold OAと呼ばれるタイプの論文です。Gold OAは、論文を投稿する時に著者がOAに要する費用を負担して、みんなが読めるようにするタイプのOAです。これが非常に伸びていて、それ以外は実はあまり伸びていません。Harnadがみんなで読めるようにしましょうよと言っていたのはGreen OAと呼ばれるタイプですが伸びていません。このことが示しているのは、学術出版社が著者に課金するビジネスモデルを構築することで、OAが金儲けの道具になっているということです。これが一つの大きな課題を我々に突きつけていると私は認識しています。

APC(出版加工料)——朝貢のメカニズム——
次のスライドは、前に同じような発表を別のところでした時に作ったものなので、ちょっとデータが古いですけれども、状況は今でもそんなに変わっていませんので、そのままご紹介します。

四大出版社と言われるElsevier、Wiley、Springerなどの出版社が刊行する電子ジャーナルの中には、論文をOAにできる雑誌もありますが、OAにする際はAPC(Article Processing Charge、出版加工料)という、論文を加工して出版するための料金を著者から徴収しています。料金はピンキリですが、高いものだと数十万円を著者に負担させる。安いものでも数万円ぐらいの負担です。SpringerやWileyなどの会社はみんな営利企業ですので、そのぐらいは負担してもらわないとOAにできないということになります。

こうしたGold OAを刊行している出版社が軒並み欧米の企業であることが、私の認識している限りでは一番大きい問題です。欧米人は、イノベーションが起きたとき、その基盤となるルールやプラットフォーム、あるいは技術をいち早く押さえて先行権を確保するのが本当に上手なんですよね。世界大学ランキングでも、外国人教員や留学生の比率が評価項目に含まれるため実質的に英語での授業が求められ、結果的に欧米の大学ランキングが上がり、ブランド価値も上がるようになっています。そういう仕組みをつくるのがすごく上手だということです。

私の研究課題のなかに、世界遺産の研究があります。世界遺産は現在、景観に対する価値づけのもっともグローバルな基準ですけれども、実は世界遺産にも同じような事情があって、最近でこそ是正されてきましたが、全体の4割強ぐらいがヨーロッパの世界遺産なんですね。人類共通の「顕著で普遍的な価値」をつくるという建前ですけれども、実際はヨーロッパの遺産がよく認定され、ヨーロッパの観光地としての価値が相対的に上がるということです。こういうところが、欧米人の上手なところだと思うわけです。

学術出版もまさにそうです。PDFで我々が論文を公開するとき、四大出版社などを通さないと国際的に注目される成果が出せない。私はちょっとどぎつい言い方で朝貢と言っていますけれども、注目される雑誌では高いものだと30万円ものお金を払わないと、成果をOAで公表できないことになっています。

学術出版におけるマタイ効果
これもちょっと古いデータですけれども、購読料が高額な(ひいてはAPCが高額な)雑誌ほどインパクトファクター(以下、IF)が高いという相関がきれいに出ています。相関ですのでいろいろな読み方ができますが、国際誌に論文を書いたことがある方はなぜなのかよくご存知だと思います。IFの高い雑誌に載せないと研究者は評価されないので、購読料が高額でもIFの高い雑誌には世界中から論文が投稿されてきます。結果、IFの高い雑誌はデータが分厚い論文しか載せないという贅沢ができます。お金をかけて分厚いデータが取れない人は、国際的な成功の舞台からは遠ざけられてしまう。これが、ある種の学術資本主義のような、大きな問題になっているのではないかと私は認識しています。

科学社会学の分野で著名なRobert Mertonという研究者が、これをマタイ効果という言い方で説明しています。新約聖書のマタイの福音書の中に、「持てる者はその豊かさのおかげでますます肥え太り、持たざる者はその貧しさゆえに持っているものまで取られてしまうであろう」という一文があります。マタイ効果というのはそれそのままに、恵まれた環境にある研究者はいい成果を出しやすく、ますます恵まれるということです。その構図が学術出版の世界で強化されつつある現状、これは大きな問題なのではないかと私は認識しています。

日本における学術予算配分——若手研究者の雇用の流動化——
ここまでの話は、欧米の人も日本の人も等しく条件の恵まれている人はいい成果を出しやすくなるという問題なんですけれども、こと日本に関しては、もう一つ別の構造的な問題があります。いわゆる「選択と集中」です。日本特有の事情として、大学の法人化以降、大学の予算は継続的に縮小され続けています。こういう話をすると、文部科学省の方々などは「いやいや、総額はそんなに変わっていないんですよ」とおっしゃるのですが、それは期限付きのお金や競争が付いているお金、いわゆる競争的資金を含めた全体がそれほど減っていないというだけです。しかも拠点校への重点配分が進んでいます。その結果、雇用の流動化が進みました。雇用が流動化すると息の長いプロジェクトはできなくなり、大学は目先のお金をもらうために文部科学省の顔色をうかがって仕事をするようになる。結果的に大学の自治権を干犯する側面がどうしても出てくるわけです。

若手の研究者の方々は、こういう構造的な問題のために不安定雇用から脱することが難しくなっています。状況が深刻化する前に就職した研究者は、私も含めて任期制ではないわけですね。ところが、若手の方は任期制じゃないとポストがない。若手の方々に対する呵責の念やそういう状況にしてしまったことに対する忸怩たる思いは、年配の先生方の多くが共有しておられるんじゃないかなと思います。私自身もそうです。私は一昨年まで大学の組合の書記長をしていましたが、その時に富山大学で(新規採用者、昇任者は)全員任期制にするという話が進んでしまいました。組合としてそれを止めることができなかったことに対して、非常に慙愧の念をもっています。

私個人としてできることは本当にちっちゃなことなんですけど、例えちっちゃくても何かできることがないのか考える機会が多くなり、それが後ほどご紹介する『地域生活学研究』を発刊する一つの動機になりました。

その結果どうなっているか——ハゲタカ出版社に捕食される日本の研究者——
ハゲタカ出版と呼ばれる、ちゃんと査読されていない論文を載せる得体の知れない雑誌なのに、掲載費用だけは取っていく出版社があります。こういう出版社が「私の雑誌だったらすぐ載せてあげますよ」と甘い言葉をささやくわけですね。構造的な問題として、若手の方に負担が集中している日本では、任期付きのポストにいて、早く成果を出さなければいけない状況にある人ほど、そこに論文を投稿してしまいやすくなる。国際的に見て恥ずかしいことですが、ご覧のように日本では海外の有名大学に比べてハゲタカ出版社に捕食される件数がずっと多くなっています。

こういうデータは、文部科学省を含む行政の方々には学者のモラルが低いと解釈されがちなんですけど、そうではありません。英語で書くのはただでさえ日本人にとってハードルが高いのに、業績のノルマがきつい。その割に資金も人員も削減され、助教も院生もポストがなくなっていく。任期付きの若い方々は十分な研究時間もとれず、次のポストを得るプレッシャーにも晒された状況で、国際誌しか評価されないというプレッシャーも年々強くなっている。そんな構造的な問題が背景にあるわけですね。それが、ハゲタカ出版による捕食数のデータに表れているのではないかと私は考えています。

今から10年ぐらい前、私はある国際学会で発表し、原稿を書いてプロシーディングスに載せたんですね。そのプロシーディングスに私のEメールアドレスが載っていたため、恐らくそこからハゲタカ出版社のカモリストに載ったんだと思うんですけど、この学会発表以降「あなたの成果は素晴らしいので、国際誌に載せませんか」というメールが私のところに次々と来るようになりました。最初に勧誘してきたのはDavid Publishing Companyというハゲタカ出版の世界では名の知れた会社です。載せてあげるかわりに1ページ60ドル払ってくださいというメールでした。

私の分野は人文科学なので、こっちがコントリビュートするのにどうして60ドルも払わなきゃいけないのかと、そう直感的に思ってしまいました。国際競争の激しい生命科学など理科系の分野では、著者がAPCとしてお金を払うGold OAが当たり前になっていたわけですけど、人文科学では当時はまだGold OAが当たり前ではなかった。すごく違和感を覚えたために、David Publishing Companyのおかしさに気付くことができたわけです。

理想は高く、ハードルは低く——『地域生活学研究』——
David Publishing Companyから勧誘されたのは2013年の7月ぐらいだった思うんですけど、その勧誘をきっかけにOAのことをいろいろ勉強しました。真っ先に感じたのは、先ほどご説明した憤りのようなものでした。PDFをデータベースに載せるだけなのに、なぜ研究者の側が30万円も取られなきゃいけないのか、どうしても納得がいかない。もっと安くできる、お金はかからないはずということを示す一種の思考実験として、電子ジャーナルの『地域生活学研究』を構想しました。2013年10月のことです。

それぞれの大学の図書館が運用している機関リポジトリがありますけれども、機関リポジトリはCiNiiと連携しています。機関リポジトリに学術刊行物を登録すると、それがCiNiiに登録され、学術情報データベースに載るという仕組みです。当時大学は、今でもそうだと思うんですけど、機関リポジトリに学術成果を載せることを歓迎してくれていました。ここに論文を載せればタダじゃないかと思ったわけです。論文の雛形なんてWordで自炊すれば簡単にできるじゃないかと。

2013年10月に、こういう雑誌をつくりますよっていう問題提起のような論文を私が寄稿したわけですけれども、これも自作の雛形に流し込んで作ったものなんです。このくらいタダでできますよと論文の中で言っています。査読は私が、メールを介して著者から原稿を受け取ってから査読者を探して査読をお願いし、結果が返ってきたら著者にお渡しする。私が中継基地になって読者と投稿者の間を取り持てばお金がかからない、早く公にできるじゃないかということですね。Stevan Harnadもそう言っていたはずです。

うちは富山大学という総合大学なので、理科系の先生もいらっしゃるし、医学部の先生もいらっしゃって、編集委員会にも入っていただいています。『地域生活学研究』は私が創刊した雑誌ではなくて、元々は学内の競争的資金を取るために、学内のいろんな学部の先生が集まって研究会をつくって創刊したんですね。その予算がちょうど2013年で止まってしまって、もう解散しましょうかって言ってるところに私が新しく入っていった。それで、せっかくこんな雑誌をつくったんだからやめずに続けましょうよって私が言ったら、じゃあ続けてもいいけど、後は全部やってねという感じで私が自炊係になったということです。

それ以来ひたすら、原稿が来たら先ほどお話ししたような手続きを私がして、掲載のお手伝いをしています。図書館の方にいろいろ教えていただきながら、リポジトリに登録して運用するところまで仕組みを作ってから、もう10年経ちますので、APCを徴収しなくてもOAで論文を公表できることは証明されたかなと思います。

その後の推移
電子ジャーナル『地域生活学研究』は、2013年につくって以来、ずっと口コミのみで運用しています。宣伝するお金はありません。来た論文を私が雛形に流し込むという本当にそれだけの雑誌で、投稿フォームもない。私のhotmail、無料のウェブメールが窓口になっている。あまり知られていないので、投稿は年に3,4編ぐらい、多い時で5,6編ぐらいです。一つの理由は宣伝が全然できていないことなんですが、学内の人文科学の先生方にとっての理由は、成果物の公表媒体としてほかに紀要もあることです。紀要に出せば審査されて嫌な思いをしなくてもいいですから。同じく、理科系の先生方は、国際誌以外は評価してもらえないですから、この雑誌に出すインセンティブがないのですね。投稿数の少なさには困っているんですが、一方では一人でやれる範囲に負担が収まっていることにもなっているので、痛し痒しで難しいところです。ただ、一度投稿して便利だなと思った方々がリピートしてくださって、何人かの方は時々投稿してこられます。

もう一つこの雑誌の特徴として、学者じゃなくても、どんな人が書いても論文の体裁が整っていれば、審査をして、受理されれば載せます。だから所属組織に紀要をもたない人、あるいは学会に入るお金が捻出できない若手の方の潜在的なニーズがあって、時々、そういう方からの投稿があります。一般市民でも書けることを示す一つの試みも行いました。震災直後にFIT法という、再生可能エネルギーで発電されたエネルギーは電力会社が買い取らなきゃいけなくする社会主義国家のような法律ができて、その結果、全国にソーラーパネルが乱立しました。特に山梨県の北杜市という別荘地では、別荘に暮らす市民の方々が太陽光発電施設によって景観が毀損されていると問題提起をしていました。その方々にアクセスして、その主張をぜひうちへ書きませんかと勧誘し、論文にまとめてもらって寄稿していただいたのです。もう亡くなられましたが当時の市長の白倉さん、現地でソーラーパネルの普及活動をやっている方々も呼んできて、誌上で熟議型民主主義を創出するという名目の下、「太陽光パネル増加がもたらす景観紛争」特集を組みました。その後、J-STAGEに『地域生活学研究』を登録できましたので、今はそれらの論文にもDOIがついています。一般市民によって書かれた論文が学術情報として流通しているということですね。

J-STAGEに載ったということは、私の分野でいうとフラッグシップジャーナルの『地理学評論』とその意味では肩を並べているということです。J-STAGEに載ると、査読付きのロゴを入れられます。そうすると、若手の方がここに論文を書いたときに「地域生活学研究? そんな雑誌知らんよ」と言われても、「いやいや、この雑誌はちゃんと査読付きなんですよ」と示すことができます。そういう意味でインセンティブがアップするかなと思っています。J-STAGEに登録して一番よかったことです。

弊誌モデルの課題
ただ、この雑誌には課題もあります。よくないなと思うんですけれども、私の問題意識や意思を受け継いでくれる方を探すのが難しく、事実上私一人が、10年編集長を続けています。個人単位でいえば、人の業績をつくるのを手伝ったからといって誰から評価されるわけでもないし、手間が増えるだけで得することは何にもないわけです。やっているのは地味な作業で、メールのやりとりをしているだけです。でも、無責任に何でも載せればいいというものではなく、学術情報を流通させる一種の社会的責務がある以上査読はちゃんとしますし、痛いことも言わなければいけない。時にはそれでトラブルになったりもして、ちょっと不愉快な思いもしますし、申し訳ありませんと謝ったりもする。そういうのを含めてやってくれる人じゃないとお任せできないところがあって、後継者を探すのが一番難しいなと思っています。

二つ目の難しさは査読者を探すことですが、引き受け手がいないという意味ではありません。私がお願いした人の95%ぐらいは快く査読を引き受けてくれます。手弁当の雑誌なので、本当にごめんなさい、お金は出せないんですけど何とか引き受けてくれませんかとお願いをしています。タダならやりませんとか、メリットがないのでやりませんと言った人は私の記憶する限りいません。今まで断られた理由は、今忙しいのでごめんなさいという理由だけです。ただ、善意にすがる形なので「不当な査読だ」、「ボランティアで引き受けて善意でやってるのに何だ」というトラブルも起きたりする。そうならないように、人柄も含めてちゃんとした人に査読を引き受けてもらうのが一番難しく、神経を使うところです。

三つ目は、先ほどお話しした、認知度がなかなか上がっていかない問題です。本当はもっと組織的にやれるといいんですけれども、私の力でなかなかそこまでいけないのが今の大きな課題だと思っています。DOAJはそこに載っている雑誌なら胡散臭くないという一つの国際的な物差しになっているので、本当はDOAJにも載せたくて、登録しようとしたこともあったんですが、いかんせん論文数が少なすぎて却下されてしまいました。DOAJに載せるのが次の目標です。

最後に転覆提案
最後になりますが、これまで10年間この雑誌をやってまいりまして、僭越ではございますけれども、ここまでお話ししたような問題意識を踏まえ、私からの転覆提案ということで、みなさまの議論の材料を提供させていただきます。

一つ目は、みなさまの組織的な力を使って、四大出版社が中心になっている、この現代の朝貢をどうにかして転覆したいということです。私の一番切なる願いです。転覆が実現すれば、『地域生活学研究』の社会的使命の半分ぐらいは終わると思っています。私も年々研究費を削られていて、みなさまもそうだと思いますけれども、そのなけなしの研究費の中からいつまで30万を四大出版社に我々は貢ぎ続けるのだと。日本に四大出版社となれるような出版社さえあればお金は国内に還流するのに、どうしてそうできないんだろうと。そのお金を還流させれば若手を雇用したりできるはずなのに、どうしてそれができないんだということを、一番悔しく思っています。何とかここに集まっているみなさまの知恵と工夫で、いつの日か転覆を実現したいと願っています。

私のようにそれぞれの紀要や電子ジャーナルがバラバラに活動しても、なかなか大きなムーブメントにはならない。個々の力を結集して、便宜的に霞が関メガジャーナルと呼んでいますけれども、和製メガジャーナル、四大出版社に肩を並べるような大きな雑誌をつくれないかをここでご議論いただけないかと思っています。

査読者を探すのは一番難しいんですけれども、先ほどご説明したように、10年間この雑誌を手弁当で運用してきて、査読を断られたことはほぼありません。研究者の職業倫理の意識の高さゆえだと思っています。強いて言えば、名前を忘れて恐縮なんですが、Web of Science的な何かが、査読者の国際的な信用を可視化していますね。私は最近Local Environmentというインパクトファクターの付いている雑誌やSAGE Openという雑誌から査読を頼まれて、「英語で査読すんの?」と思ったんですけど、査読するとこういうメリットがありますよ、この人の査読実績はこれですと可視化して、インセンティブをつけることを彼らは非常に上手にやっていました。それをこのメガジャーナルに導入すれば、査読する人にもメリットがあるというふうにできるんじゃないかと思っています。

こういう知恵と工夫を持ち寄って、一人の力ではなくてみなさんの力で、四大出版社への現代の朝貢を転覆するようなことを、ここでご議論いただけないかというのが、私が最後にみなさまにぜひお願いしたいことになります。ご清聴ありがとうございました。

〈質疑応答・コメント〉
コメント:日本語で書いた論文に対する海外からの注目について
私はシンガポールで修士をしていたのですが、アジア出身の研究者、シンガポール人、マレーシア人、インドネシアの中華系の人たちなどが、植民地主義のレガシーとして知的生産が全て英語でなされていて、大手大学出版や英語圏の大学出版がこの知的リソースを握っていることにすごく問題意識を持っていました。とくに40代、50代ぐらいの先生たちにはアジアのもっとローカルな雑誌にも載せようという動きがあって、マレーシアだったらマレーシアの雑誌に、日本だったらもっと日本語で書けと言う先生もいました。

シンガポールやマレーシアで話をしていると、日本語で書かれたものは貴重だとみなさんよく言います。日本ではみんな論文を日本語で書くので、世界的に見てレベルが高いけれども、全く知られていない研究がかなりあると思います。そういうものに若手の研究者が目をつけて、海外に論文を出す時に日本語の文献を引用したりすると、日本では当たり前なんだけれども、「えっ、そんな議論をやってたの、30年前に日本で」というようなことが最近よくあります。我々の世代は人文社会科学でも英語で書かないと仕事がないので、査読論文を海外に出そうとなっていますが、日本語で書いたものが英語圏でも徐々に評価されつつあるのかなと思います。日本語で書かれているものと英語で書かれているもののシナジーがあれば面白いかなと今日お話を聞いていて思いました。

鈴木
私が過去に書いた日本語の論文が、縁もゆかりもない海外の研究者に引用されることがあって、どこで探してきて読んでいるんだろうと思っていたんですが、そういうことがあるということですかね。

私は逆に、英語でもっと論文を書かなきゃなと思ってやり始めています。一から辞書を引いて書くのは手間なんですけど、翻訳ソフトで下訳を作るとかなり楽に英文が作れます。ここ3,4年ぐらいで、肌感覚として英語の機械翻訳の精度がどんどん良くなってきています。日本語で書いてあるものを自分で翻訳しなくても、翻訳ソフトと連携して、海外の研究者に届くシステムを作れば、おっしゃっているようなことの一つのきっかけづくりになるのではと話を伺いながら思いました。

コメント(チャット):日本語で書いた論文に対する海外からの注目について
日本発の科学論文プラットフォームに関しては、Science Postprint等が興りながら停滞(あるいは活動がパンク)する状況下、より広域的な連帯に期待したいと存じます。

コメント:編集のコストの可視化と業績評価
査読者もそうですけど、紀要をつくっている人たちのコスト、基盤を作る活動を可視化して、そういう人こそ大学に必要な人材だと思うので、採用や研究業績評価で評価できたらいいなと、URAとして常々感じています。

コメント:査読の履歴の評価Publons
先ほどの査読の履歴を残して評価するシステムは、Publonsですかね。たぶんWeb of Scienceがやっているもので、僕も査読をした時に登録します。

経済学の青木昌彦先生が、日経新聞に掲載された「私の履歴書」の中で書かれていたと思うんですけど、ジャーナルは要らないとして、自分のウェブサイトに論文を載せてそれを読んでもらうシステムをたしか最晩年の頃にやられていました。ただ僕は、有名だからそのサイトにいってくれる人がいるけれど、僕らのような無名の人間がやってもたぶん誰もたどり着いてくれないから難しいと思った記憶があります。

オープンジャーナルのメリットとして、多くの人に触れてもらえる機会が提供できるということが大きいかなと僕は思っています。査読でも、その分野で業績がある人が査読をしているので、「ああ、あの人あんなことやってる」というレピュテーションのような形のネットワークが何となく裏のところにあります。僕も知っている人が書いた論文の査読が結構多いんですよね。もちろん匿名なんですけど。それがパブリッシュされたら読んでというのがあります。研究の世界がネットワークビジネスになっていると僕は感じているので、ネットワークをどうやって作るかがお金の問題とは別に必要だなと思っています。有名な先生は自分のウェブサイトでできるかもしれないけれど、そうじゃない人がほとんどですから、いろんなところでみんなに読んでもらえるシステムにすることが重要なのかなと感じます。

鈴木
私のできる範囲だと、J-STAGEに登録することですね。J-STAGEに載っているんだから変な雑誌ではないだろうとダウンロードする人に思ってもらうぐらいしか今のところ工夫ができなくて、今後の課題にさせていただきたいです。

質問(チャット):業績評価としてカウントされるか
掲載された論文は、運営費交付金に関わる共通指標の研究業績数にカウントされるのでしょうか?

鈴木
運営交付金に関わるということは、大学本体の話ということですかね。それとも個人の研究者が学部などで年間の業績を評価されるときのことですかね。

原田
大学の方ですね。

鈴木
大学の方ですか。うちの大学には二重の規定があって、大学全体と学部それぞれの業績評価の基準があります。全学の評価は、学部の業績評価をたしか4割ぐらいにして、学長が医学系の人ということもあり、国際誌以外は論文として認めませんという基準です。学系の多様性を反映した基準だと、『地域生活学研究』は査読付きの論文として評価されます。全学の評価で、それをどう案分しているのか私は把握していないのですが。

質問:J-STAGEへの登録について
J-STAGEへの論文の登録も鈴木先生がやっておられるんでしょうか? ものすごく手間がかかるので学会レベルでも挫折して、でも学外の業者さんに委託するとお金がかかるという話を聞きます。

鈴木
J-STAGEの登録は私一人でやっています。はじめに東京へ行って半日講習を受けなきゃいけないんですけど、それを厭わなければそんなに難しいものではありません。論文を掲載する時もいろんなところに数字などを入れなきゃいけないので、面倒くさいといえば面倒くさいんですけど、素人の私でもできないものではない。手間はかかりますが、そこまで難しいものではありません。

コメント:オープンソースの論文投稿システム
私は元々図書館でリポジトリの担当していました。リポジトリに投稿のフォームを付けるという話がありましたが、フォームへのリンクを付けるだけなら簡単です。ただ、大学によってリポジトリの運営方針は様々で、ジャーナルの出版に対して積極的な大学はやりやすいかもしれませんが、ジャーナルの出版に力を入れていない大学だと運営方針から変えないといけないかもしれません。

ジャーナルの投稿システムを展開できるOpen Journal Systemsというオープンソースのソフトウェアもあります。京都大学では過去にそれをリポジトリにくっつけて運用していて、一つ紀要が動いていました。事情があって運用をやめたんですけど。そういう込み入ったシステムもやろうと思えばできます。

コメント:学術情報の日本の広いオーディエンス
ジャーナル話から少し逸れてしまうかもしれないんですけれども、誰を対象に学術的な知識を広めるかという問題があると思っています。往々にして海外のトップジャーナルは、一般的な人に読んでもらうことを想定していないんですよね。たとえば、政治学のAmerican Journal of Political Scienceはメソドロジーの話だとか、一般的な政治学を勉強している人が読んでも全然わからないような話しか書いていません。若手の研究者がなぜそこに載せるかというと、そこに載せていると就職できるからです。トップジャーナルに載っていると、読んでいなくても、「ここに載っているのでOK」とチェックが入る。そうするとテニュアを取るときにとても有利になる。少なくとも英語圏の社会科学の中では、海外のトップジャーナルはそのために機能しているものになっているのかなと思います。

一方で、日本では一般的な人にも活字文化が広まっていて、大学の先生などが本屋さんに並ぶ本をたくさん書いています。そういったものを消費する人がわりと多いと思うんですよね。日本の新聞の出版数も世界一ぐらい多いですし。これは日本のいいところなので、ジャーナルも専門家に読んでもらうのももちろんあると思うんですけど、より一般的なもう少し広いオーディエンスを想定するのも面白いのかなと思います。

謝辞:本研究は次の支援を受けています。

科研費 若手研究(研究代表者:新潟大学 白川展之准教授)「大学評価への計量書誌指標の導入のもたらす社会科学研究への逆機能性に関する研究」(19K14279、期間:2019.04.01–2023.03.31)